論理国語に対する批判や考え方を「プログラミング的思考」で総括します

2022年から高校で選択科目として導入される「論理国語」に対しての批判と評価のコメントを検索しその本質を考えてみます。

2021年の「大学入試共通テスト」の国語には記述式問題が出題されることもあり国語は今熱い話題を提供しています。

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全く無意味な「批判」とは言わないですが、「頭でっかち」で小さいときから「賢い、秀才」と評価されたか、又は逆に「生きる力が弱くいじめにあった」ことで「文学に逃げた」のかは色々人それぞれですが、「一方的な感性」での思い付きが多く「文学偏重の迷惑」な批判と言えます。

一言で言えば「論評に値しない」といえなくもありません。

論理国語を学びながら同時に身に付けたいノウハウ

検索すると無意味な批判が検索1ページ目にたくさんあります。読んでいて大変大きな「違和感」を感じました。

検索Keyワード:「論理国語」「批判」

その「違和感」は大きく5点

  1. 評論家や哲学者に生きる力とか言われても、その方たちに「生きる力」を感じない
  2. 文学者から「心を自ら耕す」と言われなくても「心を 耕す 」方法は無数にあるため説得力が薄い
  3. リアルなスポーツ体験やリアルな恋愛やリアルな上司先輩後輩との意見の相違や励ましがその例
  4. 「文学」からではなく実体験をして子供は育つのが一番で、それができない場合には「文学」でも良いが正しい考え方
  5. 実体験が「文学」より下にあるような感覚で語られていているのは大きな間違い。「文学より実対応」を先ず学ぶことで「今そこにある課題に対する成功体験」で自己肯定感を深め、並行して余った時間を「文学」に当てることが重要であるという今後の時代感覚の視点が欠落している。いわゆる認知能力に偏った意見が多数見受けられる

著者のスポーツ経験から考えての反論

自分の経験では、中学で3年間は野球部で、高校・大学の7年間はラグビー部のレギュラー選手として、批判している評論家や学者以上にはスポーツで「心を耕してきた」と考えていますので、その視点から反論してみましょう。

  1. 野球を「文学」で描く場合は、「表現の方法」が主体です。その「心を耕す」ような物語に引き込まれ涙し感動し自分の体験したかの様に言いたがりますが、実際の野球では小さなボールを細いバットの芯に当てることができなければ活躍できないわけです。その為に動体視力、筋力、反射神経、忍耐力、監督と打者と走者の連携プレーなどを練習し「失敗と成功」を繰り返しすることで自分の能力を把握してその能力向上の為の対策を実施し、試合にでて悩み、喜びを「繰り返し」自分の立場を有利になるように正当に考えて生きる力を獲得していくわけです。
  2. ラグビーでは楕円形のボールを読み、相手からのタックルを受けながらも自分のチームに良い状況でパスを残す為に強靭な筋力と体力をつける努力の繰り返しです。チャンスがあれば新たなサインプレーによりチームを前進させる思考を繰り返しながら同時に守備体制にも配慮しゲームを進めます。これば文学少年たちが経験したことのないリアルな戦いです。メンバーの現状の体力状況を考えてどの位置にボールを蹴るかを瞬時に判断していくのが現実です。その判断を誤れば一気に逆に攻め込まれる攻防のなかで日ごろのリアルな鍛錬で考えていくのが生きる力と言えます。

検索した内容の一覧

  1. 大学進学を目指す生徒の多い進学校ほど、高校1年を最後に、国語の授業では小説を扱わなくなる可能性が高いhttps://bunshun.jp/articles/-/9983?page=2
  2. 阿刀田氏は、本当の生きる力とは「金銭的価値を生むのではなく、自分の心を自ら耕すことのできる力」ではないかという。そして、人間ならではの情や割り切れなさに触れることができる“文学”から学ぶことは多い
  3. 契約文や法律の条文、図表の読み解きが『国語』の学習なのだ、といわれると、違和感を覚える
  4. PISAでの「読解力」低下の責を「国語」に押し付けようとすること自体が、エリートたちの「短慮」と「読解力のなさ」を示しています。断言してもいいですが、「論理国語」を新設した程度のことで、本質的な「国語力」は絶対に上がりません。少なくとも、真の意味での「読む力」は上がりません。
  5. 国語のできる彼らは、放っておいても、どんどん好きな本を読み漁り、勝手に「読解力」をつけていきます。逆に言えば、「読解力」というのは、その人の「生き方」に直結している分、学校教育程度のもので、すぐに「力」がつくほど甘くはないのだということです
  6. 茂木健一郎(脳科学者)ブログより抜粋。「日本語に関する教科を、「論理国語」と「文学国語」に二分して、そのうちどちらかを選択する、ということを考える人たちの頭の悪さとセンスの貧しさには、驚愕する。」
  7. 哲学者の内田樹 記事より抜粋。「文学国語」と切り分けて選択的に開発する喫緊の理由がよく分からない。断片的な情報を素材にして推論し、立てた仮説を検証する過程を心躍る文体で表現した文章に魅了されたのは、私の場合は、エドガー・アラン・ポウの『黄金虫』を読んだ時である。

論理国語を評価する方々の視点

  1. 作者の意図を正確に読み解く訓練になる
  2. 論理的思考力に直結した科目
  3. 数学、理科、英語、社会の他の科目にも応用ができる
  4. ボンヤリしていた思考がスッキリする
  5. 文章作成力が培われる
  6. 文脈が明確になり文章に対する集中力がつく
  7. 法的な文章に対する考え方が身に付く

生きる力は「判断力」「判断基準」「ルール、規定を順守」を理解していることが基本であり、論理国語が「国語」に入る事に違和感を感じるという批判に対しては「文学」「小説」が国語であるという考え方にも違和感があります。

国語は、日本語を使う人類(日本人以外を含む)の社会における「ルール」の理解が究極の目的であると規定できますのでそれ以外は本来は各個人の自由であるはずです。

文学者や作家は、芸術的なオリジナルの世界を構築することが仕事であり、優れた芸術家こそ「勝手に」育つわけですからあまり無意味な評論をされることは時間の無駄といえます。

評論家のビジネスモデルは、国に対して又は政権にたいして「依頼された内容で賛成又は反対」して生計をたてておられるので評論に真実などない可能性が高く、是々非々で判断すれば良い方々と言えます。

論理国語と文学のあり方を「プログラミング的思考」で解説します